ミステリ読書録

ミステリ・エンタメ中心の読書録です。

安壇美緒「ラブカは静かに弓を持つ」(集英社)

王様のブランチで紹介されていて、面白そうだなぁと思って予約していた作品。

その後本屋大賞にもノミネートされました。

なるほど、なるほど、話題になるのも頷ける作品でしたねぇ。とても面白かった。

少し前に、音楽教室著作権問題が話題になったのを覚えていらっしゃる方も

多いと思います。音楽教室で使われる楽曲の著作権料を巡る、JASRACヤマハ

裁判。JASRACが勝訴したのかな?まだ裁判中??ちょっとその結果は覚えて

いないのですが。

それをモデルに書かれた作品のようです。主人公の橘樹は、全日本著作権連盟に

勤める会社員。

ある日、上司の塩坪から呼び出されて、音楽教室への潜入捜査を命じられる。

目的は、裁判で有利になるよう、音楽教室での著作権侵害の証拠を掴むこと。

橘が、入社時の面接で、チェロの経験があると口を滑らせてしまったせいだった。

橘は、過去のある出来事によって、チェロを弾くことがトラウマになっていたが、

上司の命令に背くことも出来ず、潜入を承諾した。橘は身分を偽り、ミカサ

音楽教室で毎週チェロを習い始めた。講師の浅葉は気さくな人柄で、指導も的確

だった。何より、浅葉のチェロの音色は橘を感動させた。通い続けるうちに、

橘は少しづつチェロに対するトラウマを克服し、チェロの音色の魅力にはまって

行く。しかし、橘は浅葉の言動を録音し、裁判に提出しなければならなかった。

次第に師や音楽教室の仲間たちを裏切ることに心苦しさを覚え始める橘だったが

――。

過去にトラウマを抱える主人公が、音楽教室へのスパイを命じられて、チェロを

習い始め、そこで師や仲間と出会い、人生を変えて行くお話。

いろいろな魅力の詰まった小説ですね。スパイとして音楽教室に潜入する緊迫感

みたいなものもありつつ、孤独だった青年が、師や仲間と出会うことで少しづつ

過去のトラウマを克服して行く再生の物語でもある。再び音楽と向き合うことで、

自身も音楽に癒やされて行く。ただ、師や仲間と仲良くなればなるほど、自身の

やっていることが後ろめたくなってしまう。しかし、音楽教室著作権料を徴収

することは、著作権を持つ音楽家たちの為でもある。自分のやっていることは

正当なことだという矜持もある・・・と、橘の心は揺れ動く。その心の動きが

とても丁寧に追われていて、ぐいぐい読まされました。また、チェロの繊細な

音楽の表現が素晴らしかったですね。深く心に刺さる浅葉のチェロの音を私も

聴いてみたくなったし、上達した橘のチェロの音色も聴いてみたくなりました。

醜い深海生物であるラブカを、スパイである橘自身になぞらえるあたりも上手い

表現だなぁと思いましたね。ラブカになぞらえたスパイが出て来る古い映画

(作者の創造だと思いますが)の使われ方も秀逸でした。

チェロの低く重厚な響きが、暗く静かな深海のイメージとピタリとはまっている

感じがしました。まぁ、深海は無音でしょうけども。

そこでじっと周囲の様子を伺うように動かないラブカと、音楽教室で息を潜める

ように身分を偽ってスパイを働く橘との対比も効いていましたね。卑劣なスパイ

である自分を、醜いラブカになぞらえる橘の歪んだ心情も行間から伝わって来ました。

音楽教室でのレッスンが橘にとって潤いとなればなるほど、スパイ行為がいつ

ばれてしまうのか、はらはらしました。そして、ばれた後の浅葉やチェロ仲間たち

との関係は。最後までドラマがあって、読ませてくれましたね。橘自身の決断には

快哉を叫びたくなりました。その後の彼の人生を考えれば、きっと一番納得の行く

道を選んだのだと思えました。

橘と師である浅葉の関係がとても良かったですね。それだけに、終盤の仲違い

には悲しい気持ちになりましたけれど。そのまま終わらなくて良かったです。

チェロ仲間もみんなも良い人ばかりで、人を寄せ付けない孤独な橘にとっては、

宝物のような出会いになったと思う。スパイという嫌な役割を押し付けられて

しまったけれど、それがなければ人生を変える出会いもなかったわけで。悪いこと

ばかりではなかったと思う。チェロと再び向き合えるきっかけにもなりましたしね。

ひとつ気になったのは、橘がチェロを辞めたきっかけになった誘拐事件は一体

何だったのか、というところが有耶無耶なままだったこと。犯人も捕まって

ないままだし、そこはちょっと消化不良だったなぁ。いくら未遂事件とはいえ。

著作権について力説する橘の言葉で、私自身も著作権について考えさせられる

ところもありました。ただ、音楽教室から徴収するのは、やっぱり個人的には

反対ですけどね。音楽教室は、子どもたちが、広く自由に好きな音楽を学ぶ場所

であってほしいから。発表会はまだしも、レッスン段階では著作権フリーにして

欲しいなぁと思う。

私自身も高校生からピアノ習い始めた経験があるので、その時の楽しさを思い出し

ながら読めました。いくつになっても、音楽を学ぶのって素敵なことだと思うな。

とても素敵な作品でした。作中の、叙情的な音楽表現も素晴らしかったです。

他の作品も読んでみようかな。本屋大賞の結果も楽しみ。