ミステリ読書録

ミステリ・エンタメ中心の読書録です。

薬丸岳/「虚夢」/講談社刊

薬丸岳さんの「虚夢」。

突如、雪の降り積もる公園で起こった通り魔事件。犯人は次々とナイフで人々を襲った。その日
公園にいた三上佐和子も背中を刺され、幼い娘は命を失った。しかし、12人もの罪のない人々を
殺傷した犯人は心神喪失が認められ、罪に問われることはなかった。事件後、PTSDによって
心に傷を負った佐和子は、夫である孝一と離婚し、勤めていた不動産会社の社長と再婚して違う
人生を歩んでいた。別々の人生を歩んでいた佐和子から孝一に電話があったのは、事件から4年
が経ったある日のことだった。佐和子は、あの事件の犯人を目の前で見かけたからすぐに来て
欲しいという。半信半疑だったが、元妻の下へ駆けつけた孝一は、犯人の行方を捜し始める。
彼女が見たのは本当にあの犯人なのか。もし、犯人を見つけたら自分はどうしたらいいのか――
現行憲法第三十九条の問題に真っ向から挑んだ著者渾身のクライムノベル。


秋葉原の事件が起きて、著者の薬丸さんはさぞかし驚かれたのではないかと思う。本が出版
された直後にまさかあんな事件が起きるなんて。本書の冒頭で起きる通り魔事件の犯行シーンは、
まさにあの現実の事件を彷彿とさせるもので、読んでいて心の芯から戦慄するものでした。
現実に起きた事件をテレビで見たばかりだからこそ、あまりにもリアルで、読んでいて胸が
締め付けられるような息苦しさを感じました。

この事件の犯人は、何の罪もない3人の人々を殺し、9人に障害を負わせる大事件を起こします。
けれども、彼が罪に問われることは一切なかった。それは、彼が統合失調症という精神の病だと
診断されたから。憲法第三十九条によって、犯人は守られた。刑務所に入れられることもなく、
病院で療養した彼は、数年後社会に復帰します。何故、こんなことが許されるのか。
精神病であれば人を何人殺しても構わないというのか。責任能力があるということはどういう
ことなのか。簡単に答えが出るものではないです。でも、もし私が被害者の家族であったら、
間違いなく、この第三十九条を憎むでしょう。どんなに残虐な犯罪を犯しても、責任能力
ないからという理由で罪を逃れてしまえる。これでは、被害者はあまりにも報われない。
こんな不条理な事実が何故まかり通ってしまうのか。被害者の遺族である三上は、作中で度々
この問題について考えます。
人間の心の中にある正常と異常の境目を、他人である精神科医がどうやって判断できるのか、
正常な精神ではないから人が殺せるのではないか――三上が考えるように、私も殺人を犯す
瞬間は誰でも精神が壊れているのではないかと感じます。辛うじて保っていた精神のタガが
外れ、正常から異常の境界線を越えた瞬間に、人は人を殺すのではないか。そうした瞬間の
精神の異常と、責任能力がなくなる程の精神喪失との違いは一体なんなのか。精神科医
どれだけ信用できるかという問題もあります。人が人の精神を鑑定するなんて、本当に出来る
ものなのでしょうか。世の中には優れた精神科医もたくさんいると思うけれども、その人の
心の中を本当に判断できるのは、当人にしか出来ないのではないかとも感じます。だって、
超能力でもなければ、その人の内面なんて見えないのだから。騙そうと思えば、きっといくら
だって騙せるはずです。過去に憲法第三十九条に守られて無罪になった重罪人たちの中で、
精神鑑定の結果が間違っていなかったと断言できるものなんて本当にあるのでしょうか。

とてもデリケートな問題で、どんなに考え尽くしても答えが出せるものではないと思います。
それでも、この問題に真っ向から一石を投じたことは大きな意味があることだと思うし、今一番
考えるべき問題なのではないかとも思います。秋葉原の事件の犯人もこれから精神鑑定に
かけられるのでしょうから。もし、彼がこの法律によって無罪になるとしたら、私は現行憲法
失望し、司法に虚しさを覚えるでしょう。「誰でもよかった」とか、「むしゃくしゃしてたから」
なんて犯行理由で、尊い命がいくつも奪われた。こんな理不尽な犯罪は絶対に許せない。
この世からこんな事件が無くなる為にも、慎重で正当な鑑定を望みたい。


本の感想とはかけ離れたものになってしまった・・・^^;
とても考えさせらえる作品でした。重いけれども、是非たくさんの人に読んで何かを感じ
取ってもらいたい。
終盤、ある人物の手紙を読んだ時は鳥肌が立ちました。これだけの覚悟をするのに、人は
どれだけの決意と精神力が必要なのだろう。そして、精神鑑定の真偽について、改めて深く
考えさせられました。
クライマックスはやや駆け足の感が否めず、ゆきのくだりはもう少し掘り下げて丁寧に書いて
欲しかった所。ただ、ミステリとしての驚きも盛り込まれていて、問題提起するだけの作品では
ない所は充分評価できると思う。
薬丸さんは、三作でクライムノベルの書き手としての地位を確立されたように感じます。
このまま鋭い視線で犯罪問題にメスを入れ続けて欲しいと思います。