ミステリ読書録

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京極夏彦/「数えずの井戸」/中央公論新社刊

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京極夏彦さんの「数えずの井戸」。

番長青山家屋敷後通称皿屋敷に怪事あり――巷でこんな噂が出始めたのは、青山家当主青山播磨
が惨死し、青山家が廃絶してからしばらくしてのことだった。その噂では、夜な夜な、屋敷の庭
にある古井戸から美しい女の幽霊が出て、一枚、二枚・・・と手にした皿の数を数えるのだと云う。
この美貌の幽霊は、播磨の腰元、菊であるそうだ。菊が幽霊となった謂れに関しては、諸説が
飛び交っていた。しかし、ことの真相は誰にもわからない。何故ならば、その怪談に関わる者は、
一人残らず死に絶えてしまったからだ――青山屋敷で惨事が起こるまでに一体何があったのか?
真相をよそに、播磨と菊の物語は後々までに語り継がれる怪談話となったのである――。


京極さんの最新刊。『嗤う伊右衛門』『覘き小平次』に続く幽霊シリーズ第三弾です。
相変わらずの分厚さで腕がしびれながらも、相変わらずの流麗で読みやすい文章で一気に
読み切りました。改行が多いから、あっという間にページが進むんですよね~。やっぱ
改行って大事よね(笑)。

今回の題材は番町皿屋敷。実は、漠然と知識はあるものの、お菊さんがお皿を一枚、二枚
って数えて、一枚足りない~って嘆くってくらいしか内容は知らなかったのです。だから、
実際戯曲なんかで演じられている内容と、本書のストーリーがどれくらい違っているか
という比較は出来なかったのですが、多分、180度といってもいいくらい、全く違った
解釈になっている筈です。お菊さんといえば、もう、昔からある怖い怪談話の幽霊って
認識しかなかったので、本書のお菊さんのヒロイン像には驚きました。莫迦で鈍間で、どの
お屋敷に奉公に行っても粗相して解雇されてしまう。それでも、解雇されたことを憤るでも
なく、悲しむでもなく、ただ、ありのままを諾と受け入れ、漠然と日々を過ごしている。
器量は抜群に良いのに、なぜこんなにも彼女は自分を卑下してしまうのか。母親でなくたって、
彼女のことが哀れに思えました。青山家主人の青山播磨は、感情が全く表に出てこず、いつも
何かが欠けている気がして満ち足りない気持ちを抱えながら、漠然と生きているような人間なので、
なんとも掴みどころのない不可思議な人物でした。ただ、播磨に限らず、この作品に出て来る
登場人物は、みんな何か掴みどころのない感情を抱えて、何かが足りない、何かが不満だと思って
生きている人物ばかりなので、どの人物もどこかズレている印象がありましたが・・・。

伊右衛門小平次は切ない純愛ものだったので、本書もその系統かと期待していたのですが、
これは少し違っていました。菊も播磨も愛というものが何なのか把握しきれずに生きている
ような人間だから、恋愛小説にはならなかったのかもしれません。特に菊の方は播磨への感情は
完全に主へのそれであって、恋愛感情というのは結局全くなかったのではないかな。三平への
気持ちは恋愛感情に近かったのかもしれないけれど、その一歩手前で断ち切らなければならなく
なってしまったし。米搗き三平との縁談がもっと早く決まっていれば、すべてのことが違って
いただろうに、と思うとやりきれません・・・。ただ、播磨の方の菊への思いは、恋愛感情に
近いものだったのではないかと私は思ったのですが。何かが欠けていると感じる播磨が、すべて
に満たされていると感じているお菊に惹かれるのは必然だったのではないでしょうか。この
二人の関係も、いろんな人の思惑が邪魔をしなければ、もしかしたら、もっと違った未来も
あったのではないのかな・・・。どんなことにも感情を動かされず、自分から誰かに声を
かけることもなかった播磨が、菊にだけは自分から声をかけ、仕事で粗相をしないか気にかけて
あげたことからも、菊の存在は彼の感情を揺り動かすものだったことが伺えました。青山家の
屋敷で起きた惨事の際に、播磨はどんな思いでいたのでしょう。彼の心情が描かれていない
だけに、いろいろと想像してしまいました。

複数の人物の視点から語られるので、物語の展開はかなりスローテンポ。正直、もうちょっと
短く出来た気もするのですが、この分厚さが京極作品の醍醐味なのだから仕方ないところでしょう。
中盤なかなか物語が進まないので若干いらいらしたところもありました^^;でも、いくつもの
思惑が重なりあって、クライマックスへ向かう終盤の展開は圧巻。菊が吉羅に陥れる辺りからは
特に、息もつかせぬ展開で、ハラハラドキドキしながら読みました。それにしても、吉羅の
キャラにはムカムカしましたね。菊の潔さというか、諦観には、播磨や周りの人物同様、
「どうして!」って問い質したくなりました。それが彼女の彼女たる所以なんでしょう
けど・・・いくら下女だって、やってもいない罪で咎めを受けるなんて、理不尽すぎる。
なんとも、やるせない、やりきれない気持ちになりました。何ひとつ悪いことをしていない
菊が、濡れ衣を着せられて酷い目に遭わされていくのを読んでいるのはすごく辛かったです。
でも、何より辛かったのは、それを当然のこととして受け入れてしまう菊の諦観に、誰も
何もしてあげられないことだったかも。その場の誰よりも権力がある筈の播磨でさえも。
彼女の人生は一体何だったんでしょう。もっと、幸せになる権利だってあった筈なのに。
辛いことを辛いと感じない、彼女がとても哀れで、そして愛しいと思いました。

今回も巷説シリーズの又市さんが出て来て嬉しかったです。徳次郎も意外な活躍をします。
番長皿屋敷の怪談にこんな仕掛けが隠されていたなんて!と驚きました。二人が語る青山家の
惨劇の真相に怖気が走りました。それまでの物語がゆっくり平板に進むだけに、そのシーンの
劇的な展開が際立ちます。そこまで悲惨な状況に陥るとは・・・(絶句)。
有名なお菊さんの怪談話を、情感溢れる悲劇の物語に仕立てあげる手腕は流石。全体的な
冗長さが少々完成度を下げているのが残念ですが、十分読ませる作品に仕上がっていると
思いました。やっぱり京極さんの文章が大好きです。堪能、堪能。満足、満足。
細部にまで拘った装幀もさすが、でした。