ミステリ読書録

ミステリ・エンタメ中心の読書録です。

貫井徳郎/「灰色の虹」/新潮社刊

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貫井徳郎さんの「灰色の虹」。

顔半分を覆う痣がコンプレックスで人付き合いが苦手だった江木雅史。しかし、同じ会社で働く
由梨恵と知り合い、交際するようになって、人並みの幸せを噛み締めていた。更に、姉が三年
付き合った男性と結婚することが決まり、江木家は幸せの絶頂にあった。そんな雅史の人生を
激変させる出来事が起きた。雅史は一夜明けたら、身の覚えのない殺人の罪を着せられ、犯罪者
に仕立てあげられていた――無実を訴え続ければ、誰かがわかってくれると思っていた。しかし、
雅史を信じるものは誰一人いなかった。自白を強要する刑事、雅史の無実の訴えを聞き流す検事
や弁護士。雅史は法の前に無力だった。結局、下された判決は『有罪』。そして、7年後、刑期を
終えて出所した雅史は、唯一彼の帰りを待っていてくれた母と決別し、ある目的の為、姿を
くらませた。そして、雅史の裁判に関わった人々が、一人、また一人と殺されて行く――著者
渾身の長編ミステリー。


貫井さんの最新作。いやー・・・毎度のことながら、貫井さんのリーダビリティは凄まじい。
改行が多い訳でもなく、ページ数も500ページを超える長編ながら、全く飽きさせずに最後
までノンストップで読ませる物語の吸引力がすごいです。私、水嶋ヒロさんの作品を結構
面白く読んだと好意的に記事を書いたのですが、もし、読む順番が逆だったらもっと評価は
厳しかったかもしれません。テーマやキャラクターの掘り下げ方に歴然とした差を感じて
しまったので・・・。ページ数が多いからというだけではなく、一人一人の人物の心理描写
が半端じゃなくリアルで読み応えがありました。
ストーリーは、冤罪の罪を着せられた気弱な男が、出所後自分の裁判に関わった人物を一人
づつ殺して行く、という復讐劇。主人公が、やってもいない殺人の罪を負わされ、『有罪』の
判決を下されてしまうまでの過程は、本当に読んでいて腹が立ちました。特に、自白を強要した
刑事の伊佐山の言動が嫌で嫌で仕方がなかったです。正直言って、冤罪成立に関わった人が
殺されて行くところは、とても不謹慎なのだけれど、どこかで『自業自得』『いい気味』だと
思っている自分がいました。殺人は絶対に許されることではないし、復讐から生み出される
ものなど何もないこともわかっているけれど。それでも、何の罪もない人を、先入観だけで
冤罪に追い込み、平凡だけど平穏で幸せだった生活を奪い、人生を破滅に追い込んだ罪は
あまりにも重い。彼自身だけではなく、彼の家族の生活までも奪ったのですから。事件が
起きる直前の彼ら家族の生活が幸せに満ち満ちていただけに、その落差の激しさに胸が塞がれる
思いがしました。ほんの少し歯車が狂っただけで、ひとつの家庭の幸せが、こんな風に呆気無く
脆く崩れ去ってしまうというのが、どうにもやりきれなかったです。刑事でも検事でも弁護士
でも、誰か一人でも雅史の無実を信じてくれる人がいたなら。もし、担当していたのが始めから
伊佐山ではなく山名だったら。雅史の運命は全く違っていたのではないでしょうか。唯一、雅史の
冤罪を信じた山名の存在は、作品の中では唯一の救いのように感じました。山名自身もまた、
恋人を殺され、犯人に対して復讐したいと思った過去があるからこそ、刑事という立場にも
関わらず、雅史の側の立場にも立てた。目撃者の発言の小さな齟齬に気づくことも出来た。
それが、捜査の一番始めから気づけていれば。人間の思い込みで裁判を行うことの愚かさ罪深さ
をひしひしと感じました。けれども、現実の冤罪事件はきっとこんな風にして起こっているので
しょう。山名が事件の目撃者に突きつけた『あなたのような人がいるから、世の中から冤罪がなく
ならないんだ。不幸の連鎖が止まらないんだ』という言葉が胸に突き刺さりました。確かに、この
目撃者の雨宮の証言がすべての引き金になって、悲劇が起こったのは間違いない。雨宮はある意味
最も罪深い人物なのかもしれません。事件を解決する為に名乗りでた目撃者が、一番事件解決を
遠ざける結果になってしまったというのは、なんとも皮肉としか言い様がありません。でも、
一市民にそこまで証言の責任を負わせたこと自体が問題だったのでしょう。『乱反射』同様、
一人一人の心無い罪が重なって、大きな『冤罪』という自体を引き起こしてしまった。読んでる
最中ずっと、『冤罪』というもののあまりの罪深さに、刑事の山名同様、どこに自分の怒りの
矛先を向けたらいいのかわかりませんでした。読めば読むほど、雅史の絶望が胸を圧迫して行き、
読むのが辛かったです。殺された人物、それぞれに殺されても仕方がないと思えることをした
ことがわかって行くので、どうしたって読者は雅史の側に肩入れして読んでしまうと思う。
だからこそ、どうにも出来ない雅史の人生に、やる瀬なく虚しい気持ちになりました。
たった一人、雅史の無実を信じて彼を守ろうとした母親のことも、哀れでなりませんでした。
彼女の言動すべてが、『母親の無償の愛』から来ているだけに、その愛が何一つ報われないことが
虚しく、悲しかったです。

実は、終盤のどんでん返しに関しては、途中で気がついてしまいました。伏線があまりにも
あからさまなので・・・。だから、ミステリとしては、それほど瞠目すべき作品ではなかった
のですが、そこに目をつぶっても、十二分に読み応えのある傑作のクライムノベルになっていると
思います。今年司法に関する社会派ミステリーは何冊か読みましたが、その中でもダントツの
力作じゃないでしょうか。もともと貫井作品には評価の甘い私ですが、この読ませる力は
本当に凄いと思う。最後まで全く救いのない作品ですが、とても考えさせられる作品である
ことは間違いないですし、これはまたも直木賞候補に挙がるんじゃないでしょうか。ほんとに、
そろそろ貫井さんに獲らせてあげて欲しい。これだけ深く一人一人の心理描写を掘り下げて
真に迫る作品に仕上げた手腕は評価されて然るべきです。十分賞に値すると思うんだけどなぁ。


ただ一点、不満があるとすれば、結局市瀬を殺した真犯人は誰だったのか、その動機は何だった
のか、というところが書かれなかったところ。そこはきちんと明かして欲しかったなぁ。
もしや、由梨恵が雅史の為にやったのか?とか最初は深読みしちゃったりしてたんですけどね。




ラストシーンがあまりにも幸せで美しい場面で終わっているので、余計にその後に起きる
出来事の悲惨さに拍車がかかったように感じて、悲しくなりました。映画の『悪人』もこんな
終わり方だったなぁ・・・。
全編に亘って、『灰色』に拘っているところも、作品の重苦しさが助長されているように
感じました。ラストで二人が見たような、美しく七色に輝いていた虹が、突然灰色に変わってしまう。
まさしく、雅史の人生を象徴しているように思いました。
貫井さん、渾身のクライムノベル。『冤罪』という重いテーマを、十分掘り下げて描ききって
いると思う。こういう作品こそ、世間に広く読まれて欲しいと思います。