京極夏彦さんの「虚言少年」。
僕は、まあやる気のない、モテない、冴えない子供だ。かといって憤懣やるかたないわけでもなく
鬱々と陰に篭っているわけでもなく、人気者でもなければイジメっ子でもなく嫌われ者でもなければ
イジメられっ子でもない。毎日がそこそこ楽しくて、そこそこ幸福であり、なのにそれを自覚して
いないことが多いので不平不満を垂れたりして、面白ければ笑うし悲しければ泣くし好きなことは
やりたいし嫌いなことはやりたくなくて、学校も好きでも嫌いでもないという、まあべたっとした
どうでもいい子供なのである。ただ、まあ特徴を一つ挙げるなら。僕は―嘘吐きなのだ(紹介文抜粋)。
鬱々と陰に篭っているわけでもなく、人気者でもなければイジメっ子でもなく嫌われ者でもなければ
イジメられっ子でもない。毎日がそこそこ楽しくて、そこそこ幸福であり、なのにそれを自覚して
いないことが多いので不平不満を垂れたりして、面白ければ笑うし悲しければ泣くし好きなことは
やりたいし嫌いなことはやりたくなくて、学校も好きでも嫌いでもないという、まあべたっとした
どうでもいい子供なのである。ただ、まあ特徴を一つ挙げるなら。僕は―嘘吐きなのだ(紹介文抜粋)。
京極さんの最新刊。前作の『オジいサン』が老人を主人公にした作品だったので、今度はそれに
対抗してなのか、少年が主人公。その主人公の内本健吾は小学六年生の男の子。馬鹿なことが
大好きで、友達二人と(途中から三人に増えますが)アホでくだらなくて、とにかく笑える物事を
探してお腹の底から馬鹿笑いすることに心血を注いでいるという、子どもらしいのかオッサン
くさいのかなんだかよくわからない少年です。正直、彼らには共感も好感も持てなかったので、
とにかく前半なかなかノレずに、読むのに苦戦しました。京極作品でこういうことって初めて
かもしれないのですが。くだらない、下品な作品は過去にもたくさんありましたが、読むのに
苦戦したって記憶はほとんどないんですよね。京極さんの文章自体は好きなので、お馬鹿な話
でも割とすらすら読めてしまうので。前作の『オジいサン』も、最初は主人公の自己完結気味の
独白にイラっとしたものの、読み進めて慣れるにつれて主人公にも好感持てるようになって面白く
読めましたし。
でも、今回のケンゴの語り口には、最後までハマることが出来なかったです。小6にしては
達観しすぎている語り口に違和感を覚えたからかもしれません。それは友達の京野もそうなの
ですが。彼ら二人の会話は、とても小学生とは思えなかったです。老人同士の会話と言われても
違和感なかったかも^^;冒頭の方で、本人自らオヤジくさい子供だと公言しているし、この
話が子供時代を回想しているのではなく、現役で子供だと断言した上で、子供は語彙が貧困だし
思考回路も単純で、あちこち繋がりも悪いから、わかりやすく大人語に翻訳されている云々、
という断りの文句は一応あるのですけれど。それを踏まえた上で読んでいても、やっぱり子供
らしさの片鱗も感じられない彼らの言動には違和感を覚えたのですよねぇ。ケンゴは、虚言癖の
ある子供という設定ではありますが、彼の嘘はそれほど悪意のあるものではありません。嘘を
つくことで、笑いに繋がればそれで満足、みたいな感じでつく為、みんなから嘘つき呼ばわり
されることもなく、何となく笑いでやり過ごされてしまう。教室内でも、目立つポジションに
立たず、かといっていじめられる方でもなく、あくまでも中立の立場にあえて立っているせいで、
この嘘が自然と受け入れられちゃうんですね。まぁ、その辺も、誰か指摘しないのかなぁ、とは
思ったりしたんですけども。それに、ラストの『屁の大事件』での成田君に対する発言は笑って
済ませるレベルじゃないよなぁ、とちょっと読んでいて腹が立ちましたし。とはいえ、それも
ケンゴ自身も含めた四馬鹿カルテットの機転(?)で、笑いに変えちゃうところは、ある意味
すごいな、と思いましたけれど(苦笑)。
対抗してなのか、少年が主人公。その主人公の内本健吾は小学六年生の男の子。馬鹿なことが
大好きで、友達二人と(途中から三人に増えますが)アホでくだらなくて、とにかく笑える物事を
探してお腹の底から馬鹿笑いすることに心血を注いでいるという、子どもらしいのかオッサン
くさいのかなんだかよくわからない少年です。正直、彼らには共感も好感も持てなかったので、
とにかく前半なかなかノレずに、読むのに苦戦しました。京極作品でこういうことって初めて
かもしれないのですが。くだらない、下品な作品は過去にもたくさんありましたが、読むのに
苦戦したって記憶はほとんどないんですよね。京極さんの文章自体は好きなので、お馬鹿な話
でも割とすらすら読めてしまうので。前作の『オジいサン』も、最初は主人公の自己完結気味の
独白にイラっとしたものの、読み進めて慣れるにつれて主人公にも好感持てるようになって面白く
読めましたし。
でも、今回のケンゴの語り口には、最後までハマることが出来なかったです。小6にしては
達観しすぎている語り口に違和感を覚えたからかもしれません。それは友達の京野もそうなの
ですが。彼ら二人の会話は、とても小学生とは思えなかったです。老人同士の会話と言われても
違和感なかったかも^^;冒頭の方で、本人自らオヤジくさい子供だと公言しているし、この
話が子供時代を回想しているのではなく、現役で子供だと断言した上で、子供は語彙が貧困だし
思考回路も単純で、あちこち繋がりも悪いから、わかりやすく大人語に翻訳されている云々、
という断りの文句は一応あるのですけれど。それを踏まえた上で読んでいても、やっぱり子供
らしさの片鱗も感じられない彼らの言動には違和感を覚えたのですよねぇ。ケンゴは、虚言癖の
ある子供という設定ではありますが、彼の嘘はそれほど悪意のあるものではありません。嘘を
つくことで、笑いに繋がればそれで満足、みたいな感じでつく為、みんなから嘘つき呼ばわり
されることもなく、何となく笑いでやり過ごされてしまう。教室内でも、目立つポジションに
立たず、かといっていじめられる方でもなく、あくまでも中立の立場にあえて立っているせいで、
この嘘が自然と受け入れられちゃうんですね。まぁ、その辺も、誰か指摘しないのかなぁ、とは
思ったりしたんですけども。それに、ラストの『屁の大事件』での成田君に対する発言は笑って
済ませるレベルじゃないよなぁ、とちょっと読んでいて腹が立ちましたし。とはいえ、それも
ケンゴ自身も含めた四馬鹿カルテットの機転(?)で、笑いに変えちゃうところは、ある意味
すごいな、と思いましたけれど(苦笑)。
ちょっと嬉しかったのは、『オジいサン』に出て来た田中電気がちょっぴり出て来たところ。
多分、この田中電気のオヤジさんは、『オジいサン』に出てきた田中電気の先代なのではないかと
思うのですが。本書自体、時代が特定されている訳ではなく、漠然と昭和のこのへん、みたいな
書き方なので、はっきりそうだとも言い切れないのですが(でも、さすがに先々代ってことはない
んじゃないかなぁ・・・^^;)。
多分、この田中電気のオヤジさんは、『オジいサン』に出てきた田中電気の先代なのではないかと
思うのですが。本書自体、時代が特定されている訳ではなく、漠然と昭和のこのへん、みたいな
書き方なので、はっきりそうだとも言い切れないのですが(でも、さすがに先々代ってことはない
んじゃないかなぁ・・・^^;)。
まぁ、内容はあってないような小説です(酷い紹介)。阿呆な少年たちが、阿呆馬鹿なことを延々と
繰り返す毎日を淡々と綴った日常小説・・・ですかね(適当)。面白く読める人もいると思うけど、
合わない人にはどこが面白いのかわからない作品かも^^;私には、ケンゴたちの笑いのセンスは
正直あまり・・・というか、ほとんど理解不能でした・・・。クラスに、こういう男の子がいたら、
多分絶対、相手にしてないな・・・。彼ら自身が自分たちのことを『クラスの屁みたいな存在』と
評しているのですが、全く言い得て妙な例えだと思いましたね。多分、この上もなく、頭の回転は
良いのだと思うのですよね、ケンゴも京野も。その頭の回転を、もっと違う方面に使えばいいのに
なぁ、と思ったりしたのでした。
繰り返す毎日を淡々と綴った日常小説・・・ですかね(適当)。面白く読める人もいると思うけど、
合わない人にはどこが面白いのかわからない作品かも^^;私には、ケンゴたちの笑いのセンスは
正直あまり・・・というか、ほとんど理解不能でした・・・。クラスに、こういう男の子がいたら、
多分絶対、相手にしてないな・・・。彼ら自身が自分たちのことを『クラスの屁みたいな存在』と
評しているのですが、全く言い得て妙な例えだと思いましたね。多分、この上もなく、頭の回転は
良いのだと思うのですよね、ケンゴも京野も。その頭の回転を、もっと違う方面に使えばいいのに
なぁ、と思ったりしたのでした。
毎回書いてますが・・・もう、そろそろこういう小説は打ち止めにして、例のあのシリーズに
着手してくれないですかね。京極さんの作品が出る度に同じことを書かなければいけないファンの
悲しさよ・・・(涙)。
着手してくれないですかね。京極さんの作品が出る度に同じことを書かなければいけないファンの
悲しさよ・・・(涙)。