桜庭一樹さんの「私の男」。
2008年6月。私は結婚する。15年前、私を暗い海の底から連れ出してくれた私の男を
置いて――。父と娘、許されない愛は時代を遡り、二人の過去を明らかにしてゆく。許されぬ
愛に溺れる親子の禁忌を圧倒的な筆致で描く衝撃作。
タイトルや装丁を見て、随分アダルトな雰囲気だなぁと思っていましたが、想像以上に
衝撃的な内容でした。近親相姦。一言で云ってしまえばたったその四文字。多分、普段の
私ならばこの重さにはきっと耐えられない。でも、桜庭さんの圧倒されるような文章に
知らず知らず引きこまれて飲み込まれてしまいました。今までの桜庭作品には、どこかからりと
乾いた空気を感じていましたが、本書は全篇に亘って冬の暗い海のような、じめじめと
した湿り気のある空気が漂っている。淳悟から発散される‘雨の匂い’や、二人から
流れる粘り気のある汗や体液。どろどろした欲望、ねっとりと絡みつく濃密な二人の時間。
どこまでも淫靡で陰惨なのに、どこか純粋で美しい。多分、この作品を映像化しようと
したら、下手をするとB級の○ロビデオになってしまいかねない。二人に流れる微妙な心の
動きや執着は、桜庭さんの筆力があってこそ成立する世界という気がするから。ただただ
お互いだけを必要とし、寂しさを埋める為に寄り添い合って生きる二人。その間に違う
人間が入り込む余地などある筈もなく、邪魔する人間は排除されていく。罪を重ねても、
離れられない‘血’の繋がり。二人の生き方はとても共感なんか出来るものではありません。
多分、端から見たら、とてもいびつで理解しがたい、共犯関係。花も淳悟も犯した罪は
あまりにも重く、残酷で身勝手です。それでも、願わくば、二人にはいつまでも離れずに居て
欲しかった。一章ごとに明かされていく二人の過去を読めば読む程、その願いは強くなって行き
ました。片方が欠けたら、片方がだめになってしまうのがわかるから。それ程の依存関係。
読んでいて胸が苦しくなりました。
本書は少し変わった倒叙形式になっています。冒頭では『現在』が描かれ、一章ごとに過去へ
遡って行きます。この構成が見事に成功している。前の章で謎となっていた部分が、次の章で
明かされ、少しづつ二人の過去の全貌が明らかにされて行く。最後に花と淳悟の出会いが
語られて、その時から二人の絆の深さが始まっていると知れる。だからこそ、冒頭の一章に
ほとんどの人間が首をかしげるのではないでしょうか。何故、花は淳悟から離れて行くのか。
一生離れないと誓った筈なのに。淳悟から逃れて花に何が残るのだろう。私には彼女が
幸せになれるとは思えないです。多分、花の心の中から淳悟が消えることはないから。
いつまでも影を追い続けて一生を過ごすのであれば、このまま二人でいる方が幸せだった
筈なのに。花の心変わりが何だか解せなかったです。二人が大人になるにつれて、何かが
変わって行ったということなんでしょうけど。その間の花の心の動きをできればもっと
描いて欲しかった。その部分が欠けているので、何か冒頭の章だけ浮いている印象になって
しまった。最後まで読んで改めて冒頭の章に戻ってそう感じたんですが。
以下ネタバレ注意です。未読の方はご注意下さい。
一番気になるのは淳悟がその後どうしているのかということと、花の母親は一体誰なのか
ですね。できればその辺も書いて欲しかったなぁ。でも、淳悟に関しては、知らない方が
いいのかもしれない。小町が花についた嘘の通りになっているような気もするし。それは
あまりにも残酷な結末だけれど、淳悟には似合っている気もする。二人が今後本当に
二度と出会うことがないかもしれないというのは、やっぱり悲しい。二人にはずっと、
二人だけの濃密な世界を創っていて欲しかった。それが神に許されないことだとしても。
とにかく、圧倒される作品でした。衝撃度は今年読んだ作品の中でも1位かもしれない。
このテーマで、これだけ人を惹き付ける作品が書けるというのはすごい。桜庭一樹の才能を
見せ付けられた気がしました。
決して読んでいて気持ちのいい話じゃない。陰惨でグロテスクで、目を背けたくなるような
話です。それでも、読み始めたら止まらない。お薦めかどうかと聞かれると困る。
でも、読んで絶対損はしないと思う。「赤朽葉家~」で気に入られた方には戸惑う作品
かもしれないけれど、私は桜庭一樹の本質はこちらの作品にあるような気さえします。
多分、桜庭さんは今後直木賞候補の常連になる気がするなぁ。