ミステリ読書録

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奥田英朗/「オリンピックの身代金」/角川書店刊

奥田英朗さんの「オリンピックの身代金」。

昭和39年、8月。オリンピック開催で沸き返る東京。オリンピック最高警備本部・幕僚長の実家で
爆発事件が起きる。しかし、事件は報道管制が敷かれ、表向きは単なる小火騒ぎとして処理された。
一週間後、中野の警察学校で再び爆発事件が起きる。警察には犯人からと思われる犯行予告状が
送られてきていた。しかし、警察は再び事件を隠蔽し、秘密裡に捜査を行う方針を打ち立てた。
オリンピックを前に、日本の威信に関わる事件は絶対に公にしてはいけないのだ。そして極秘の
捜査を続ける警察の前に、一人の東大生の存在が浮かび上がって来る。東京オリンピック、華々しい
栄光の陰に、反逆の狼煙を上げた一人の男がいた――著者渾身の長編サスペンス。


実は奥田さんの長編を読んだのは初めて。『邪魔』や『最悪』が傑作だということは知って
いたのだけれど、どうもあの分厚さに手が伸びず、手に取る作品はすべて軽めに読める短編集
ばかりでした。本書も、タイトルから軽快な誘拐ものとかなのかな~とか思いながら読み始めたら、
大間違い。そうした軽い作品とは全く正反対の、恐ろしく重く暗いトーンの長編サスペンスでした。
舞台は敗戦後の幾年を経て、高度経済成長に向かって飛躍しようとする昭和の日本。東京オリン
ピックという日本中が沸き返るような明るいイベントを成功させることによって、海外への
評価を高めようと政府や警察たちが躍起になっている中、反旗を翻した一人の男の物語です。
単的に云ってしまうと、これは東京オリンピックを引き換えに8千万円を要求した爆弾テロ犯
の逃走劇を描いた作品。つまり、テロリズムの話です。と、こう書くと、どんな悪人が犯人
なんだ?と思われるでしょうが、これが全くテロリストらしからぬ穏やかで心の優しい青年
なのです。およそ、テロリズムとは無縁の、東大に通う気の弱い優男。何故、そんな人物が
テロリストになるまでに至ったのか?その経緯が、時系列を遡る形で少しづつ明らかにされて
行きます。構成は伊坂さんの『ゴールデンスランバー』に似てるかな、と少し思いました。
ただ、正直いえば、始めは犯人である国男がテロ活動をしようと決心した経緯がいまひとつ納得
できず、彼の言動が受け入れられずに読んでました。前途有望な東大生だった彼が、突然死んだ
兄の代わりに労働階級に身を落とした理由もどうも理解不能な部分があったし。性格が掴み
切れないまま読み進めていたので、前半はちょっと乗り切れない部分もありました。容易に
ヒロポンに手を出してしまうところも引っかかりましたし。ただ、彼が純粋に社会のヒエラルキー
の理不尽さ、労働階級の人々の報われなさに憤りを感じ、日本の社会を少しでも平等にしたい
という切実な願いから行動を起こしていることを知るにつれて、彼のことを応援してあげたい
気持ちになりました。オリンピックを妨害すること自体は誰から見てもいけないことだし、
ダイナマイトを仕掛けることで、どんなに死人を出さないように配慮したからといって全く
人的被害がないなんてことはあり得ないとわかっていても、それでも彼が捕まらないように、
彼のテロ活動が成功して欲しいと願っている自分がいました。憎むべき存在の筈のテロリストに
こんなに感情移入させてしまうとは。恐るべし、奥田さん。

東京オリンピックという華々しくも明るいイベントの裏で、それを成功させる為に体力の限界
まで働かされた労働者たち。その過酷な労働条件は読んでいるだけでこちらが倒れそうでした。
幾人もの死者まで出したのに、闇に葬りさられてしまった事実。現代であれば、まちがいなく
過労死として認定されているでしょう。労働階級というだけで、人としての最低限の扱いさえ
約束されない理不尽さ。でも、それを理不尽だと感じることが出来るのは、私が豊かな日本に
生きているからです。国男自身も、東大生という将来を約束された上位の人間の扱いを受けて
いたからこそ、労働階級に身を落として始めてその不平等さに気付くことが出来た。当時の
労働者たちの間では、それは『当然のこと』あるいは『仕方のないこと』として、受け入れ
られていたのでしょう。理不尽さを理不尽だとも感じられない労働者たちにやるせない気持ちに
なりました。彼らは何の為に生きていたのか。まだ、東京で働いている人たちには楽しみが
あった。でも、例えば国男の郷里の人々。東京の華々しい暮らしなど一生縁がなく、閉じられた
村でつましい一生を終える人生。30代で老婆のような容姿になってしまった国男の義姉を
思うと悲しくなりました。国男の憤りが伝染するように私にも染み込んで来ました。

時系列をずらしながら、物語は国男視点と警察視点、国男の東大時代の同級生でありテレビ局
に勤める須賀視点などから代わる代わる語られます。構成が非常に上手い。上下段組、500ページ
以上(しかも字が小さくてぎっしり!)と、少々長すぎるかなとも思いましたが、様々な要素が
入りながら、詳細な時代考証の下に煩雑にならずに読ませるエンターテイメントに仕立てている
ところはさすが。

そこまでの経緯を考えると、ラストはあまりにもあっけない。でも、こうなるより他にない
のだから仕方がないのでしょう。歴史的事実を曲げる訳にもいかないでしょうし、そもそも
この事実の下で作品が描かれているのだから。結局国男のしたことは何だったのか、という
問いかけを投げかけているようにも感じました。ラストで村田が叫ぶ一言に胸が締め付けられ
そうになりました。私も、同じ気持ちでした。どうか、お願いだから。彼は一体どうなったの
でしょう。語られないことで、想像力を掻き立てられます。村田の願いが通じたことを祈る
のみです。

全体のトーンはとても暗くて、読んでいて楽しい話ではありません。読後も不条理や理不尽、
やるせなさといった気持ちに捉われ、未だに気持ちの整理がつきません。記事ももっと
書きたいことがあった気がするのに、なんだか纏まりがなくなってしまった。すみません^^;
それでもとにかく、一級品のエンターテイメントであることは明言できると思います。好き、
嫌いはあるでしょうけれど、奥田さんの作家としての力量を見せつけられた力作であり傑作と
云って差し支えないでしょう。