ミステリ読書録

ミステリ・エンタメ中心の読書録です。

桜庭一樹「彼女が言わなかったすべてのこと」(河出書房新社)

桜庭さん最新刊。パラレルワールドの世界で繋がった友人同士の交流を描いた、

少し変わった作品でした。主人公の小林波間は、ある日、御茶ノ水で通り魔事件に

遭遇する。現場が騒然とする中、偶然大学時代の友人中川くんと再会する。体調

の悪い波間を見かねて、中川くんは着ている上着を貸してくれた。その場でLINE

交換をし、後日再び会う約束をした。しかし、約束当日、待ち合わせ場所に行っても、

同じ場所にいる筈なのに、なぜかお互い見つけられない。どうやら、二人は東京は

東京でも、お互いに違ったパラレルワールドの東京を生きているらしい。あの日

御茶ノ水で再会したのは奇跡的なことだったのだ。それから、二人はLINEだけで

お互いの日常をやり取りすることに。波間の日常は、病院通いの他はのんびりと

過ぎて行くが、中川くんの日常は次第に未知のウイルスで暗雲が立ち込めて行き――。

コロナが流行る東京と、そうでない東京。波間が生きているのは、そうでない方の

東京で、中川くんからのLINEで、コロナが流行り出してから、パンデミック

全世界が混乱に陥るまでの状況が、逐一報告されて行く。その内容は、コロナ禍を

知らない波間にとっては、到底信じがたいもので、まさしくパニック映画のよう

に思えてしまう。読んでいて、私たちが経験したことを、経験していない人間が

聞くと、ほんとにフィクションのようにしか思えないんだなぁとしみじみ実感

させられました。確かに、コロナ禍の三年間って、非日常過ぎて、全然現実感

がなかった気がする。客観的にコロナ禍に起きていた出来事を説明されると、

こんなに現実感がないものなのか、と驚かされました。ほんの少ない感染者から、

どんどん感染が広がって行き、世界中がコロナで大混乱になって。死者もどんどん

増えて。政府は緊急事態宣言を出し、エンタメはなくなり、街から人の姿は消え、

人と会えなくなって行く・・・。今思い出しても、やっぱり異常だった。

面白いのは、桜庭さんが、主人公の波間の方を、コロナじゃない方の東京にいる

ことにしたところ。現実の私たちから見れば、波間の方がパラレルワールド

生きていることになる訳で。普通だったら、主人公をリアルに近い側に据える

ような気がするんだけどね。

ただ、波間は波間で、自分の現実と闘っていて。彼女はある病気に罹っていて、

その治療で病院通いをしているのです。でも、病院に通っていることは、ごく一部

の人しか知らせず、彼女は自分の病とほぼ一人で闘っている(親友一人と、兄

だけは知っていて、波間に寄り添ってくれることもあるけど)。近況報告

し合う中川くんにも、病気のことは一切知らせない。自分が辛かったり大変だったり

することを、中川くんには知らせたくなかったのだろうな、と思う。学生時代の

元気だった波間のままでいたかったのかも。画面ごしに、髪の毛のこととか、

点滴治療中で顔がむくんだりしている時に、相手もおかしいなと感じてないとは

思えないんだけどね。そういう描写は一切出て来なかったな。中川くんとは、

あくまでもお互いの趣味やその時あった日常のことだけを話していく。恋愛感情も

一切入っていない、からっとした二人の関係がとてもいいな、と思いました。

それぞれに大変なことを抱えているけれど、お互いのLINE上だけでは、なんて

ことのない、何気ない話ができる。きっと、それが気晴らしや心の支えになって

いたのだと思う。

途中、コロナに罹った中川くんからの連絡が途絶えてしまった時は、一体

どうなってしまったのだろう、と心配になりました。後遺症が酷くなったとか、

精神的につらくなったとか、いろいろ考えてしまって。単純に、二人の世界線

繋がらなくなった、というのもあったと思うのだけど。終盤になるまで、中川

くんとの通信は繋がらないままだったので、もやもやしながら読んでました。

最後、少し救われる場面があってよかったですけどね。

波間の病気のことも、最後まで心配になりましたが、こういう結末でほっとしました。

もともと、死をエンタメ化するようなお話はあまり好きではないので。病気を

乗り越える方が、ずっと私にとってはドラマがあると思うけどな。波間と同じ

病気を患っている深南の、自身の闘病に関するブログの書籍化がダメになった

理由には腹が立ちました。死ななきゃ書籍化出来ないって、何ソレ!?って感じ。

人の死をなんだと思っているのか。同じ病気で苦しんでいる人だって、病気を

克服した人の本の方が勇気づけられると思うけどな。

波間の内面心理は共感出来たり出来なかったりだったけど、彼女が強さも弱さも

両方持ち合わせている女性だというのは伝わって来ました。淡々と進む物語が

時には単調に思える時もあったけど、たくさん傷つきながら、それでも前を向いて

生きようとする波間のことが、私は好きでした。

少し風変わりな物語だったけど、コロナ禍を客観的に見ることが出来たという

意味でも、読む意義があったと思う。波間にも中川くんにも、それぞれの世界で

幸せでいて欲しいなと思います。