ミステリ読書録

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北森鴻/「香菜里屋を知っていますか」/講談社刊

北森鴻さんの「香菜里屋を知っていますか」。

三軒茶屋にひっそりと存在するバー香菜里屋。4種類の度数の違うビールとマスター工藤
のオリジナル料理目当てにいつも常連客がつめかける。しかし、ある日突然店を閉めて
姿を消してしまった工藤。一体工藤の身に何が――香菜里屋シリーズ完結編。


寂しい。寂しい――。本当に終わってしまいました。シリーズ作品が完結して、こんなに
切なく寂しい気持ちになったのは久しぶりです。終わり方が終わり方なだけに、いつもそこに
あったものがなくなってしまった時の、ぽっかり心に穴が空いたような空疎な気持ちに捉われました。
このシリーズの例に漏れず、本書も5作の短編が収録されていますが、一作読むごとに常連客が
個々の理由で香菜里屋から別れを告げます。工藤さんは離れて行くお客に対しても、いつもの
如くに優しい微笑みで見送ります。最高の料理とおもてなしと供に。だから、離れて行くお客
の方が別れの寂しさを感じてしまう。そのおもてなしをもう受けることができなくなってしまう
から。それでも、いつかまた帰って来た時、そこには当然の如くに香菜里屋があり、工藤さんと
会えると信じているから笑顔で別れられる。多分誰もがそう思っていたと思う。それなのに・・・。

私自身も、いつか三軒茶屋に行ったらふと香菜里屋を見つけられるような気がしていました。
本の中でしか存在しないとわかっていても、きっとその街に行ったら大きな提灯と焼き杉の
看板が見つかって、お店に入るとヨークシャテリアの精緻な刺繍が施されたワインレッドの
エプロンをしたマスターが微笑んでくれる・・・そんな幻想を抱いていたのです。それ位、
香菜里屋は自然と私の心に馴染んだお店でした。お酒は飲めないけど、美味しい料理と工藤さん
や常連のお客さんと語り合う為に通った馴染みのお店のような身近な存在。そのお店にもう
会えないと思うと、本当に悲しく切ないです。別れがあまりにも突然だったから。

工藤さんの過去は想像以上に重いものでした。こんな想いを抱えてずっとお店を続けて
いたなんて・・・。彼を陥れた人物には怒りしか感じませんが、彼はそんなことは全く
拘っていなかった。彼のお店はたった一人の為にだけあったのですね・・・。そして、その
人物の為にまた新たな出発を決意した。残された者にとってはあまりにも悲しい選択ですが、
最後に工藤さんがバー香月の香月さんに宛てた手紙を読んで、彼の心が希望に溢れていると
わかり、納得する以外にないのだな、と思いました。きっとあの工藤さんのことだから、
新しい土地でも美味しい料理を作って、時には謎を解いて、誰かを救って行くのでしょう。

ラストの話では最後を飾るにふさわしく、北森作品の人気シリーズキャラが勢揃い。『雅蘭堂』
の越名さん、『冬狐堂』の陶子さん、民俗学準教授の連丈那智先生・・・。香菜里屋を中心
に、これだけのキャラが繋がっていた。まさしく、北森ワールドの要が香菜里屋だったという
ことなのでしょうね。他のシリーズでいつか工藤さんのその後が語られたりする時が来る
のかもしれません。

きっと、またいつか会えますよね。どこかの街で、工藤さんのいる香菜里屋に。
そう、信じたいです。